割り箸と一緒に入ってる「つまようじ」いらなくね——の巻

ざわめき

 割り箸と一緒に入っている「つまようじ」が本当に嫌い。

 紙やプラで全面が覆われている袋タイプの割り箸には超高確率で、つまようじが入ってる。
 そのため弊俺が割り箸を購入する時は必ず、つまようじが入っていないタイプの物を選ぶ。

なぜ、つまようじが嫌いなのか——

なぜ、つまようじが嫌いなのか——

 「つまようじそのもの」は別に嫌いではない。あくまでも「割り箸と一緒に入ってるつまようじ」が嫌いなだけ。
 つまようじが、この世からなくなっても困ることは1つもない。
 なぜつまようじが存在するのか、不思議でたまらない。存在する理由を弊俺はわかっていない。

 一般的には歯に挟まった異物を取り除いたり、ウインナーとかにぶっ刺したりするために使うのだろうが……果てしてそれは本当に必要なんだろうか。
 何故わざわざデリケートな歯茎に対し、先の尖った鋭利な木を向けなければならないのか。危険でしかない。

 「ケガする人なんかほとんどいないじゃん」
 馬鹿。ケガを負わないために神経を使ってるからケガしないってだけだろ。
 神経を使わなったら間違いなくケガするでしょ。
 「慣れたらすぐじゃん。簡単じゃん」
 人間は無意識の内にかなり神経を使う。つまようじを使うという行為が神経の無駄遣いだと言っているんだ。
 時間は有限。人生は有限。大切な人生の一部を、つまようじごときに使っていいのだろうか?

 いいや、よくない。よくないに決まっている。
 割り箸と一緒に入ってるつまようじ、特に紙で包まれているタイプの中身が見えない割り箸は、われわれ人間にとって損失をあたえている。
 あんな鋭利なものが入ってるのに、袋の外から見えない。

 こういうことを言うと「つまようじがどこに入ってるか手探りすりゃいいじゃん」などと謎の論理展開をする頭のおかしい人が一定数いるが、その手探りしている時間が非常にもったいないと、なぜ思えないのか。
 たかだかつまようじ。つまようじの位置を手探りするために、大切な時間、人生、命を削るなんて、あまりにもおかしな話ではないか。

 「手探りすればいい」なんてのは、ただの「妥協」。
 妥協して命を削るなんて非常に馬鹿げている。
 割り箸ユーザーが命を削るのではなく、根本的な話、つまようじを封入しなければいいだけの話。

プラ袋のやつなら中が見えるから良いのか——

プラ袋のやつなら中が見えるから良いのか——

 よくない。「おてもと」あたりに、つまようじがある場合、そこから開けると指がケガをする。だからその場合、割り箸の先のほうから開けなきゃいけない。
 ということは、素手で割り箸の先端を触らなきゃいけないではないか。

 口にいれるところをわざわざ素手で触りたくないじゃん。人の手って雑菌だらけだし。手を洗ってもなんか嫌じゃん。自分以外の人が使う時は特に。割り箸の先を触っては不快に思うよね。

 こんなことを言うと、「じゃあ、つまようじを「おてもと」から先端の方へトントンやって落とせばいいじゃん」と言ってしまうおかしな人が一定数いてしまう。
 ため息が出る。その時間が本当に無駄ではないか。
 なぜ、「つまようじそのものが不要だ」という結論に至らないのか、世にいる「つまようじ肯定派」の思考には頭痛がする。
 ということで、やはり「割り箸に入ってるつまようじは不要」だと言える。
 弊俺は割り箸をめっちゃ使うので、っていうか食器洗いゼロの生活をしているから割り箸しか使わないんだけど、割り箸使う時はつまようじが入ってないものを必ず買うようにしてる。

 という誰が得するのか全くわからないけど不服をどこかにぶつけたくなったので書いた記事でした。

 それでは、しばしの別れ。

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