皆既月食をインストールしたい。
「きょう皆既月食みたいだけど、この部屋からは見えないね、あっち側だ」という妻の発言から数十秒の間に「行く行かない」のやりとりをお互い交互に優柔不断になりながらも繰り返しながら結局はジーンズを履きアウターを羽織り鍵とiPhoneをポケットに入れ玄関を出る夫婦二人。
マンションのエントランスを出て、まずは辺りをくるりと見渡すが、月の姿は見当たらない。北海道札幌市。現在の天気、曇り。少しばかりの星が僅かに見える程度で、空全体が雲で覆われている。無理そうな気もするが、とりあえず大きな建物が少なくなるところまでは歩いてみる。
なんだかんだ5分くらいは歩き、曇った夜空の中から月の姿を捜してみるが、まったく見つからない。「ないね」「ね」と交わし、諦めた我々は自宅マンションへと帰ってゆく。
最中、0度近くの寒夜だというのに、街灯につられた1匹の空飛ぶ虫が、わりと低いところまで飛んできて、びびった我々はダッシュで虫から逃げた。
もうあと数秒でマンションに着くぞ、というタイミングで「たぶん(あるんだろうけど)隠れてるっぽいね」「(ね)方角的にはあっちなのにね」と悔しさを滲ませた言葉を一度だけ交換した後、なんとなくその方角へ顔をやると、まさかの登場、皆既月食。ついさっきまで、そこに月なんてなかったのに、最後の最後で現れてくれた、皆既月食。こんな急に天気が変わるのか。まさに『天気の子』を思わせた。
写真を撮ろうか撮らないか迷ったが、雲の動きがやたらと早く、アウターのファスナー付きポケットからiPhoneを取り出しカメラを起動するまでの間に皆既月食が見えなくなってしまっては嫌だなと思いカメラでの撮影は諦め、肉眼での撮影を試みるも勿論失敗。
撮影には失敗したが脳内メモリにはしっかりと保存された。あの赤く滲んだ薄暗い球体。皆既月食。こんなぞわぞわとさせるレアな現象を、同じ世界で同じ国で同じ時間軸に生きる妻と同じ時間に同じ場所で同じ空気を吸いながら見られたのだから、それだけで十分だ。写真なんてべつにいらない。記憶に残ればそれでいい。
そんなことをしっとりと考えながら皆既月食を見ている我が輩の横では、必死にGalaxyのカメラを動かしズームしたりピントを合わせたりしている妻の姿があり、おおお温度差があるなぁと感じたが、まあべつにいいだろう、人それぞれだ。
外に行く前の我が家の室内は肌寒く、室内でありながらもモコモコアウターを羽織っていたが、寒夜の寒空の下を歩いたおかげか、むしろ家の中が全体的に暑く感じる。おかげでモコモコアウターを羽織らずに過ごせている、そんな現在。この温度差にはお得感を抱く我が輩であった。