流行りを鎮めた小学生
小学生時代。くだらない言葉遊びが流行った。揶揄系の。子供特有のまったく面白くないやつ。我が輩は当時からソレに面白みを感じなかった。
例えば1つ紹介してみる。代表格といえる揶揄系言葉遊びは以下。
「ねぇ、ちゃんと風呂入ってる?」
「入ってる」
「うわぁ〜姉ちゃんと風呂入ってるんだ〜シスコンだ〜(笑)」
これ。どうやら彼らからすると、姉ちゃんと一緒に風呂に入ると『シスコン』とのことだ。
くだらない。そして面白くない。流行っているわりに万能性もない。姉ちゃんいない人のほうが多いのに。ターゲットが限られてしまう。流行らない。流行るはずがない。なのに流行った。この言葉遊び。なぜ流行った。この言葉遊び。
彼らも薄々気づいている。姉ちゃん持ち男子が少ないことを。なのに彼らはなんとしてでもこのブームを維持させようと頑張っているから愚かだ。そしてズルい。姉ちゃんがいてもいなくても揶揄してくる。つまりはシスコンが成立しなくても、揶揄が成功すればなんでもいいということだ。
「ねぇ、ちゃんと風呂入ってる?」
「入ってる」
「うわぁ〜姉ちゃんと風呂入ってるんだ〜シスコンだ〜(笑)」
「姉ちゃんいない」
「つまんな〜(笑)ひとりっ子かよ。寂しい〜かわいそ〜」
とまぁ、こんなかんじで、どちらにせよ揶揄。シスコン失敗のちに揶揄。どう転んでも揶揄。
そんな愚かな男子小学生たちに嫌気がさし、揶揄に少しイラッときたタイミングで、反論を試みたが失敗に終わる。
「ねぇ、ちゃんと風呂入ってる?」
「入ってる」
「うわぁ〜姉ちゃんと風呂入ってるんだ〜シスコンだ〜(笑)」
「姉ちゃんいない」
「つまんな〜(笑)ひとりっ子かよ。寂しい〜かわいそ〜」
「そのネタつまんないからやめたほうがいいよ」
「は?」
「姉ちゃんがいるから成立するネタなんだから確率的に低いだろ。いない場合はすんなり諦めろよ」
「じゃあおまえが面白いこと言えばいいんじゃん〜」
「……はぁ」
彼らに恥じらいはない。正論を正論と認識できていない。闇雲な揚げ足取りで何かを発音できたらそれで反論できたと勘違いしている。そんな奴には何を言っても無駄。ため息な結末が待っているだけだった。だから、後日、切り口を変えてみた。
「ねぇ、ちゃんと風呂入ってる?」
「入ってる」
「うわぁ〜姉ちゃんと風呂入ってるんだ〜シスコンだ〜(笑)」
「姉ちゃんいない」
「つまんな〜(笑)ひとりっ子かよ。寂しい〜かわいそ〜」
「死んだ」
「え?」
「姉ちゃん死んだから」
「……ううそだな。おまえひとりっ子だったじゃん」
「ずっとまえに死んだ。……今はひとりっ子」
「……あ……そお……なんだ……」
「うん」
「ご〜……めん……」
「うん」
このように、架空の設定をつくりだし、姉が死んだという似非事実を露骨に悲しみながら伝えるのではなく、冷静に伝えるからこそ悲しみのリアリティが増す。その冷静さに《時を経て乗り越えて来た感》が醸し出される。
揶揄系言葉遊びを繰り出してきた人に罪悪感を与えたことで一気にブームは終わった。いくら小学生とはいえ、罪悪感には敏感。重くのしかかる罪悪感には精神的に耐えきれない。
べつに「はいはい」で流せば済む話だが、彼らはしつこい。飽きるまで毎日何度もそのつまらない遊びに巻き込んでくる。だから根絶する必要があった。大切な休み時間をつまらなくさせる彼らには罪を与えたかった。
嘘は便利。ついていい嘘はある。正直でいることは良いことだと思うが、嘘も上手につけるようになったほうが人生はもっと楽になる。その嘘にいちいち罪悪感をいだく人は、人付き合いが下手なのだろう。なんだかんだみんな、いざという時は無意識に嘘をつくので、人を不幸にしない嘘なら日常的についたほうが得である。
未だに揶揄系言葉遊び『姉ちゃんと』が小学生の間で行われているかどうかはわからないが、もしそのブームに巻き込まれたら、我が輩のように「姉ちゃん、死んだから……」と嘘をつくことを推奨する。くだらなくつまらない遊びはサラッと流し、休み時間をもっと有意義に過ごしてほしい。