封入するな。
爪楊枝が嫌い。
いや、爪楊枝そのものは別にそこまで嫌いではない。この世に不必要な物だとは思っているが、まだマシなほうにいる「嫌い」に分類される。まぁそれは嫌いってことなんだが。あぁそうだ嫌いってことだな。嫌いってことだね。うん嫌いだ。でも、それよりも、もっともっと嫌いな奴がいる。
そう——おれがもっと嫌いなのは、
『割り箸と一緒に入っている爪楊枝』。
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爪楊枝がこの世から消失しても、困ることは一つもない。
なぜ爪楊枝が存在するのか、不思議でたまらない。
存在する理由も使用する理由も当然みたいに扱われている理由も、まるきりわからない。
「歯に挟まった異物を取り除くんだよ」
……何故わざわざデリケートな歯茎に対し先の尖った鋭利な木の剣を突き付けなければならないのか。シンプルな話、危険でしかない。そんなもん使わなくたって、フロスでいいじゃん。安全じゃん。フロス安全じゃん。糸じゃん。プラスチックじゃん。簡単じゃん。よく取れるじゃん。爪楊枝、メリットないじゃん。
「怪我する人なんか、ほとんどいないよ」
馬鹿かお前は。怪我する人が日本全国的頻繁多発するような物なら疾の前に禁止されているだろう。そうじゃなく、怪我を負わないためには慎重に使わなきゃいけない。そのためには、神経を消費してしまうわけだ。無意識的に神経、労力、時間を使っているからこそ結果的に怪我をしてないっていうだけで。雑にやれば怪我する人は当然に増える。だからフロスでいいじゃん。
「でも慣れたら簡単じゃん」
いやだから、われわれ人間は無意識の内にかなり神経をつかっている。時間は有限。気力も体力も有限有限。爪楊枝を使うという行為が神経の無駄遣いだと言っているんだ。神経疲れを促進してしまう原因なんだよ。
大切な命、人生の一部を、爪楊枝ごときに使っていいのだろうか? いいや、よくない。よくないに決まっている。とくに割り箸と一緒に封入されている爪楊枝、なかでも紙で包まれている袋タイプの中身が見えないやつ。アレはわれわれ人間にとって大きな危険、損失をあたえている。あんな鋭利なものが入っているのに、袋の外から見えないなんて、危険すぎる。そして神経、労力、時間の無駄遣い。自傷行為そのものだ。
「爪楊枝がどこにあるか手探りすりゃいいじゃん」
話を聞いているのか。なんだその謎の論理展開。頭がおかしいんじゃないのか。その手探りしている時間が非常にもったいないとわからないのか。逆に問いたい。なぜそう思えない? たかだか爪楊枝だぞ。存在意義のない爪楊枝だぞ。爪楊枝の位置を手探りするために、大切な時間、人生、命を削るなんて、あまりにもおかしな話ではないか。「手探りすればいい」なんてのは、ただの妥協。妥協して命を削るなんて非常に馬鹿げている。
「プラ袋のやつなら中が見えるし、いいじゃん」
よくない。もし「おてもと」すなわち箸の持ち手のところあたりに爪楊枝がある場合、そこからプラ袋を開けると当然ながら指を怪我する。だからその場合、割り箸の先のほうから開けなきゃいけない。ということは素手で割り箸の先端を触らなきゃいけないではないか。口にいれるところをわざわざ素手で触りたくない。人の手は雑菌だらけだ。手を洗ったとしても触るのは嫌だ。自分以外の人が使う時は特にだ。割り箸の先を触られると不快になるだろう。
だからといって箸をテーブルとかに立てて袋を下側へ引っ張り突き破る方法で封を開けるのは面倒だし、力加減を間違えるとその勢いで爪楊枝が手に刺さる。
「じゃあ、おてもとから先端の方へトントンやって落とせばいいじゃん」
デコピンとかで? ……ため息が出る。コツがいる。あんな狭い空間経路にいる爪楊枝の位置をずらすのにはコツがいる。そして神経、労力、時間を使う。その時間が本当に無駄だ。
もう、なぜ「爪楊枝そのものが不要だ」という結論に至らないのか。ほんと世にいる爪楊枝肯定派の思考や反論には頭痛が走る。割り箸ユーザーが限られた大切な命を削るのではなく、根本的な話、爪楊枝を封入しなければいいだけの話。これは、そういう話なんだ。わかったか——。
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紙やプラで全方位が覆われている袋タイプの割り箸には高確率で爪楊枝が封入されている。おれは割り箸の超重利用者。だからいつも割り箸を購入する時は必ず爪楊枝が入っていないタイプの物を選択して買うことにしている。
おれは、爪楊枝が嫌い。
なぜなら、おれの命を奪ってくるから。
でも、お弁当のウインナーには、爪楊枝をさしてください。だって箸で持ったら滑るんだもんウインナー。3秒ルールは使わない主義なので。できれば色つきの可愛い爪楊枝でお願いしますね。