共感は無くてあたりまえ。
MOKUJI.
『共感を前提とする風潮に溜め息』
まず、共感しないのは当たり前。だから共感されないのも当たり前。この地球上には色んなタイプの脳構造があるのに、なぜか共感を前提としてしまう風潮が日本国には存在する。むしろ共感しなくて当たり前なのに。それが自然な至りなのに。なぜこの国の人々は共感を求めるのか。
もう前提というか希望というか強要のレベルで求めてくる。まるでそれが常識かのように自分の脳みそを美化して同調を求めてくる。そんなんだから迷惑な同調圧力が迷惑に生成される。そしてその同調圧力に怯える者が新たに同調圧力に加わる。イケナイ連鎖。当たり前を当たり前としない謎の風潮が完成される。迷惑な塊は転がり続ける。
共感を前提にする必要性は一体なんだろう。なぜそんなにも共感を求めるのだろう。共感ではなく理解があればそれでいい。それで人々の関係は上手くまわってゆく。まわっている。合理的な判断のもと理解し合えればそれでいいのに。共感そのものはする必要がないのに。
なんですかい。共感はそんなにも気持ちが良いモノですかい。あれですかい。共感されないってそんなにも不服なコトなんですかい。
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『議論は喧嘩じゃない』
本来『議論』は知識がブラッシュアップされたり新たな別角度の情報を得られたりして楽しい事だと思うのだけど、共感を前提にする風潮があるせいか、ただの不毛な喧嘩に着地する傾向が多くみられる。
共感するまでひたすらに殴り続けるため強要マウントポジションを取る事にこだわり続ける。実際はマウントではなくガードポジションである事に本人は気付いていない。とにかく、議論というモノの意味を勘違いしている。
『Twitter』なんかでよく見られるのは《揚げ足取りの大喜利》ね。ただの揚げ足取りなのに、平然と「自分は良いことを言ってます正論ですー」みたいなかんじで哀れに愚かに揚げ足取りの大喜利を繰り広げる。
揚げ足取り芸人たちの多くは、ゼロヒャクで片付かない話をゼロヒャクに持ってったり、ただの感情論で論理展開を始めたり、読解力が貧しいせいか行間も脈絡も読めず、前提条件をなにも理解せず、つまりは発言の意図を全く理解できないでいる。にも関わらず、なぜか「良いこと」を言おうとする。結果、ただの揚げ足取りになるという。ユニークな仕組み。
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『思考停止で現実逃避』
根本である脳みその型が人によって異なるのだから、思想や生き方が万人に刺さるわけがない。にも関わらず、その刺さらない人たちは、ソレが万人に刺さらない発言だからといって、ソレの揚げ足を取って一斉に大喜利大会を始めてしまう。
受信側はその大喜利を特に読まず、元の経緯を知る事もなく、なんとなくで共感(同調)をして[♡]のボタンを押すことが多い。それかきっと、何かしら自分に都合の悪い事実が含まれている発言に対し気分を害し、その発言かつ発言する人間を世の常識という枠から排除したいという想いで、揚げ足取りを肯定し気持ち良くなりたいのだろうね。
たとえ正論であってタメになる発言であっても都合の悪い事実なので受け止めたくないというよくわからないただの現実逃避。つまりは同調圧力的に間接的に叩きに参加しているのと同じなので大喜利に対して闇雲に[♡]する人もまた愚かなのですよ。
——まあこれはTwitterに限った話ではない。日本全体の縮図がTwitterと言ってもそこまで大袈裟ではないと思いTwitterを題材にしたまでで。
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『サイコパス』
幼い頃から「サイコパス」と言われることが度々あった。大人になった今でも言われる事がある。どうやら変わっているらしい。……はぁ。ため息が出る話だ。多様性、十人十色という言葉がある中で、なぜそのような思考に行き着くのだろう。なぜ脳構造が人によって異なるという事実を受け止めきれないのだろう。
だいたいおれがサイコパスと言われる時は、周りがふだん話題にしないような事を言ったりとか、たまたま多数決的に周りが共感できないような事を発言した時が多かった。ひとことで言うと「独特な発言」をした時によくサイコパスと言われる。言ってるおれは独特とは思っていないがね。
何度か問うてみたことがある。何故サイコパスだと思うかを。結果、合理的な返答はなかった。一度も。ふわふわと「なんかまあ、まあ、普通は……こうじゃない?」みたいなトンチンカンしか返ってこなかった。なんだよ普通って。基準はなんだ。基準はどこだ。普通の定義を詳細にプリーズ。
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『自分を守るために他人を傷つけるな』
きっと自分の理解できない言葉や世界観がアレルギーになっているのだと思う。新しい情報が恐ろしくて発作が出ているのだと思う。彼らに悪気があるかないかはわからないが、だから彼らは他人を『ヘンで可笑しな人』とカテゴライズするのだろう。そうすることで安心したいんだと思う。
自分の知識のなさ、ボキャブラリーのなさ、頭の悪さを認めたくないのだろう。自分がつまんない人間だということを認めたくないのだろう。守っても何の意味もないプライドを、無駄に高く持ち、無駄にずっと守り続けている。
自分の非を肯定したいだけ。汚れを汚れで上書きして、「ほら見えないでしょ(最初の汚れは)」みたいなことをやっていて上手く誤魔化せているつもりなのかもしれない。他人を落として自分を高くみせるという錯覚が気持ち良いのだろう。
頭の貧しさを美化するのに必死だということはわかるが、でもだからといって他人を乱暴に否定してまで自分を肯定するのは止めてほしいね。
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『否定も肯定もしないスタイル』
なぜ人間は「自分が知らない物事」に対し、なんでもかんでも否定するのだろうねえ。ほぼ完璧に理解したうえで否定する人間も存在はするが、多くの人間は理解せずに否定を始める。理解しようとする姿勢すらなかったりもする。
きっと自分の知らないナニカに何らかの恐怖を感じているのだろう。知らないというだけで、それを『ヘンナモノ』として扱う。そして排除しようとする。その風潮は老害に限らず若い世代、日本の幅広い人間に該当する。
なぜ否定から始めるのだろう。知らないモノに対しては「知らない」で終わる話なのに。専門家ではないんだ、大した知見やボキャブラリーがなくて当然なんだし、素直に「知らない」「わからない」と認めればいいのに。
すごいモノには「すごいね」。すごいけど好みじゃないモノには「たしかにすごいね。でも好みではないかなあ(笑」。理解できないフリはせず、たとえ肯定できなくても《認めてますよ》を素直にちゃんと伝えればいいのに。
「理解はできたけど、共感はできないなあ」「共感はできないけど、そういう人がいるのはぜんぜん不思議じゃないよね!」っていう、否定もしなければ肯定もしないよスタイルでいればいいだけなのに。
とてもシンプルな話。共感は出来ないかもしれないが理解は出来るように努力をする。自分にとっての異物を感情的に排除せずしっかりとコミュニケーションをとる。共感なんかしなくていい。しなくて当たり前。だから理解しようとする姿勢だけはこれからもしっかりと保ち続けたい。