できないチェックアウト。
チェックアウトまで残り31分。私物で散らかる室内。床、テーブル、椅子、ベッド、満遍なく物で溢れかえっている。空き巣に入られたと言えば信じる人が多いだろう。とにかく散らかり放題の部屋。昨晩いったい何あった状態。
いま起きた。間に合うか、チェックアウト。
アラームが鳴ったか鳴ってないのかも覚えていない。そして昨晩の記憶もない。だからこんなにも散らかっている理由は覚えていないし、根本的な話、こんなにも大量の物を持って来たという記憶も実はない。
けど、いまその答えをひとつひとつ記憶の引き出しから無理矢理ひねくり出す必要はない。この現状、現実、事実に最も関わっているであろう当事者である自分が何も覚えていないため状況の把握が出来ず、つまりは驚いているが、驚いたままでもいいから部屋を片付けなきゃいけない。モヤモヤしたまま私物の回収をしなきゃいけない。ここはアメリカ。アメリカのビジネスホテル。忘れた物を後日取りに伺うことは実質不可能だし、おそらく日本への発送もしてくれないだろう、きっと処分されるだけだ。
いま考えるべき事はただ一つ、チェックアウト。そう、チェックアウトに間に合わせる事、のみ。
なぜか記憶が飛んでいるので何泊したのかさえ覚えていない。1泊ではないことは荷物の量で把握できる。人間1人が収納できそうなめちゃくちゃでかいボストンバッグが置いてあるし、バザーを開けそうなくらいに大量の服が散らばっている。明らかに旅行で持ってくる服の数の度を超えすぎている。住むつもりでここへ来たのではと疑うくらい、とにかく大量に服が落ちている。
そう思わせたのは服の数だけじゃない。何故ならプラスチックの組み立て式『収納棚』みたいな家具も持ってきているからだ。本、数十冊は収納できそうなサイズ、けっこう大きい。なぜ海外旅行に収納棚なんかを持ってきた。怒りを感じる前に呆れを感じた。本当に《自分が》コレを持ってきたのか。摩訶不思議。恐怖。
この収納棚がホテルの物では無いというのは何となくわかっている。記憶がないけど、なんとなくこれは自分の物だと、脳みそが訴えかけてきている。
怒りながら呆れながら焦りながら泣きそうになりながら謎の収納棚と服を巨大ボストンバッグへ乱暴に詰め込んでゆく。残り22分。チェックアウト、なんとしてでも間に合わせたい。
収納棚は分解していないが、すっぽりとボストンバッグに収まった。このボストンバッグは不思議だ。大きいだけじゃなく、伸縮性があり、「もう入らないから!!!」っていう状態からでも余裕でたくさん入ってしまう。まるでブラックホールかのように、まるで四次元ポケットかのように、吸い込まれるようにバッグに収まってしまう。
残り14分。しかし、あれだ。片付けても片付けても減っていかない。多すぎる私物。気のせいなのか、さっき片付けたスペースにまた新たな私物が生成されている。無限に私物が湧いている。寝ぼけているのか、幻覚をみているのか、酔っ払っているのかわからないが、片付けても片付けても片付いていかない。
地獄。あれから15分くらいはハイスピードで片付けっぱなし。もう片付け終わってもいい頃なのに、なぜ終わらない、片付け地獄。
考えていても仕方がない。やるべきことはただ一つ、ボストンバッグまたはリュックまたはポケットにひたすら私物を詰め込んでゆくだけ。チェックアウトに間に合わせるだけ。
さらに動きを加速させ私物の回収に励んでいると、まさかの登場、タランチュラ。
胴体、約4cm。脚、約5cm。色、真黒。
残り9分。
なぜ現れた、このタイミングでタランチュラ。
アメリカでタランチュラは日常茶飯事なのか。いや茶飯事なわけがない。茶飯事なら大惨事だ。アメリカの人口はとっくに激減しているはずだ。きっとほとんどの人間はタランチュラの出現に耐えられない。ましてやホテルで。ましてや高階層。記憶がないから何階の部屋かは覚えていないが窓から見た景色で高階層なのは間違いない。
というか、なぜ出る、いま。このタイミングで。チェックアウト間近だというのに。出るか、このタイミングで、お前は。
我が輩は蜘蛛が嫌いだ。大嫌いだ。小さいのでも見かけると泣きそうになる。鳥肌が立ちすぎてむしろ鳥になるほどだ。にもかかわらずタランチュラ。無理が過ぎている。
居るということは、この部屋にはタランチュラの餌となる獲物が多くいるはずだ。ということは、1匹いればもう1匹いるはずだ、べつのタランチュラが……。
残り8分。絶望。目の前にタランチュラがいるという事実にはもちろん絶望だが、それだけではない。チェックアウト間近で急いでいる時に現れてしまい、もうこれは確実に間に合わない、という事実にも絶望している。そしてさらに、これまで片付けてきた私物の中にタランチュラが数匹混じっている可能性が十分にあるということ。絶望。またすべての私物を取り出し、特に服は1枚1枚バサバサやったり中までしっかり目視して確かめなければいけない。絶望。もしいれば、そのつどタランチュラと直接対決しなければいけない。絶望。卵を産んでいたらどうしよう。絶望。このタランチュラたちを1匹たりとも日本へ持ち込んではならない。もし自宅に持ち込んでしまってはおしまいだ。部屋にタランチュラがいるとわかればもう二度とその部屋では眠れなくなる。すぐさま引っ越す必要があるが、また持ち込んでしまっては意味がないので、とにかく全所有物を処分しなければいけない。絶望。絶望。絶望……。
残り7分。強烈な絶望感により、今すぐこのホテルの窓から飛び降りてしまおうか考えた。
最悪な現状とソレがもたらす未来に最大限の嫌悪をいだき、もう何も考えたくなくなり、今すぐに現実逃避をして、とにかく何もかも楽になりたかった。
残り6分。動きを止めていた蜘蛛がとうとう気色の悪い脚で走り出した。ベッドの上を走り、壁をつたってゆく。
見失ってはいけない、と目で追っていたが、突然に姿を消した。あの野郎、どこへくらました、姿。
残り5分。触ることはできないため、何にも触れないよう最小限の動きでタランチュラを目で探す。
残り4分。ふと、もしいま自分の背中に密かにタランチュラがくっついていたら、と脳裏によぎる。それが事実かどうかはさておき、そんなことを想像してしまったせいでもう、いてもたってもいられない。
突然に襲いかかる猛烈な恐怖により涙を目に浮かべながら猛ダッシュで窓へ向い飛び降りよう。と思ったが、そんな勇気はなかった。勢い任せでいけると思ったが普通に無理だったので、部屋の物をすべて放棄しドアを出て、エントランスへ向かった。残り3分。全速力で走る。タランチュラが背中にいるかもしれないという可能性を考慮し、全速力の途中、何度か激しく飛んだ。側から見たら「なんであの人ハードル走してんだろ」と思うほどに、激しくぴょんぴょん、全速力でエントランスへ。
残り1分。誰だかわからないけどおそらく知人に「荷物はどうした、もう出発なんだけど」と言われた。これまでのことを説明しようと思ったが、寝坊してシャワーも入ってないし歯も磨いてないし荷物は置いて来ちゃったし記憶はないしタランチュラが出たし今も背中にくっついてるかもしれないし、と何もかもめんどくさい状況なので説明は諦めて、何て返答しようかを考えていたら、残り0分。アラームが鳴り、目が覚めた。夢だ。