さば缶のフタが恐いんです。

小説

【あらすじ】

 「わたし、さば缶が嫌いです」。さば缶嫌いの主人公『わたし』。そんな彼女「さば」は好きらしい。でも「さば缶」は嫌いらしい。なぜなら——恐いから。いったい、彼女とさば缶のあいだで、何が起こったというのか? さぁ、鯖缶がもたらす恐怖と緊張感を、どうぞ召し上がれ——。

【本文】

 わたし、さば缶が、嫌いです。
 なぜなら、恐いからです。
 なぜ恐いって? それはね……飛び散りそうだから、汁が。
 あの——魚の生臭いエキスと油と調味料とかが混ざり合った、とんでもない汁。
 さば缶のフタをあけた時に、飛び散りそうで恐いんです。
 アレが自分や自宅のどこかに飛び散り付着した時のことを考えると……ゾッとします。
 あぁ恐い。恐いです。

 100歩、1000歩、10000歩譲って。飛び散ったアレを洗剤とかでゴシゴシ拭きあげれば、とくに問題は無いかもしれませんね。
 しかしです。それは飛び散ったアレを「発見できた場合に限る……!!」のです。
 もし発見できなかったら、アレは、ずっとわたしに気付かれぬまま、ずっとわたしの近所で生存し続けることになるのです。
 あの——魚の生臭いエキスと油と調味料が混ざり合ったとんでもない汁が、わたしの近所で生存し続けることになるのです!!(怒)。

 そんなことになってしまっては、後日、思わなぬ瞬間に、
「…………いや魚くさっ!!」
 ってなりそうです。
 お気に入りのクッションとかぬいぐるみとかを抱え、読書をしたりiPhoneやパソコンをいじったりするのが至福のひとときです。
 ですが、そのクッションとかぬいぐるみとか、ましてや本やiPhoneにいくつかある穴やパソコンのキーボードの隙間とかに、あの——魚の生臭いエキスと油と調味料が混ざり合ったとんでもない汁が付着していたらと考えると…………恐怖恐怖恐怖恐怖。恐怖。恐すぎます。

 こんなことを言うと、「飛び散らないように、ゆっくり開けたらいいじゃん」と申し上げる浅はかな者がたまにいやがるのですが、ハッキリと申しあげましょう。あのね——汁が飛び散らなくて《《も》》恐いですから。
 結果的に、あの、とんでもない汁が飛び散らなくてもですよ? 「一歩間違えれば飛び散るかもしれない……」というその状況、その危機感でフタをあけなければならないんです。
 こんなに緊張することなかなかないぞ、ってくらいに緊張してしまいます。
 その緊張は『恐怖』という感情が根っこにあるから起こります。
 そして、その『緊張』もまたさらなる恐怖へと、恐怖という感情を増幅させてしまうトリガーになってくるのです。
 緊張と恐怖が連動し連鎖反応をみせ、どんどん、どんどん恐くなってくるのです。

 半分まで、半分だけフタを開ければ、飛び散るリスクはかなり低いでしょう。
 ですが「半分だけ」なので当然、中に入っているサバは、かなり取り難くなります。無理して取ろうとすると、ぼろっぼろになってしまいます。
 だから5ぶんの4くらいまでは、なんとかフタをあけなければなりません。
 しかし——その「5ぶんの4」が、非常にデリケートなところなんです。
 5ぶんの4までいくということは、いつあのアルミのフタが、≪ッッッッピィーン!≫となるかわかりませんからね。≪ッッッッピィーン!≫となってしまっては手遅れですからね。
 あの——魚の生臭いエキスと油と調味料が混ざり合った、とんでもない汁。
 これが≪ッッッッピィーン!≫と飛び散ってしまうのです。
 それにフタを絶妙な位置で止めておくには、かなりのコツと経験がいります。
 いきすぎてしまうと≪ッッッッピィーン!≫とフタが完全にめくれてしまいます。
 ≪ッッッッピィーン!≫となれば、とんでもない汁が飛び散ってしまい大変です。
 だからなんとしてでも≪ッッッッピィーン!≫を引き起こしてはならないのです。
 そして、またその「≪ッッッッピィーン!≫を引き起こしてはならない」というその使命感が緊張を引き起こし、恐怖の時間が始まるのです。本当に、本当に怖いのです。

     ✳︎

 でも最近——わたしの目に良いニュースが飛び込んできました。
 なんと、さば缶のフタが、進化したらしいのです。
 それは、長年わたしを苦しめてきた、≪ッッッッピィーン!≫となるアルミ製のフタではなく、なんと、紙で出来たフタを採用しているらしいのです……!!!!
 その名は——日本水産『スルッとふた さば水煮』。

     ✳︎

 さっそく買ってみました。外はふぶきでしたが、さっそく買いに行って来ました。あの恐怖、トラウマが解消されるならば、天候なんて関係ありません。克服。克服できるなら。わたしは。わたしはどこへだって行きますよ。

     ✳︎

 なるほど。見た目は紙っぽいのですが、厳密にいうと紙ではなく、薄~~いアルミシートでした。ですが、感触は紙のような質感です。
 …………っふ。
 …………ははは。
 これ、まじで最高です。
 シールのように≪メリメリッ≫と、静かに簡単に剥がせました。
 フタなのに、フタじゃない感じ。
 フタじゃないのに、フタなんです。
 ということは、
 ということはですよ、
 ≪ッッッッピィーン!≫となりません。
 ≪ッッッッピィーン!≫とならないのです。
 ≪ッッッッピィーン!≫とならないということは、
 あの——魚の生臭いエキスと油と調味料が混ざり合った、とんでもない汁。
 アレが自分や自宅に飛び散らないのです。
 わたしの至福の私物を穢《けが》される事はもうないわけです。
 紙のフタ、神です。
 わたし、さばを噛み、喜びをかみしめました。
 おかげさまで、もう恐い思いをしなくて済みそうです。
 これ。
 わたしのために作ってくれたのですかね。
 きっと。
 わたしのために作ってくれたのでしょう。
 はぁ。
 さばって、こんなに美味しいんですね。
 やっぱり。
 わたし、さば缶が、好きです。