「虚しさ」というコンテンツ。

随筆

 なぜか、たまに、買ってしまう。
 そんなに美味しくない、むしろ不味い部類に入る……『缶コーヒー』。
 どうせ缶コーヒーなんて「缶コーヒー!」みたいな味だってことはわかっているのに。自分の心が缶コーヒーに過剰反応してしまう時がある。
 味に期待しているわけでもなければ、喉の潤しを期待しているわけでもなく、糖分量に期待しているわけでもない。味も量も値段も健康面も駄目駄目。正直、買う理由がない。コスパが悪すぎる。

 にもかかわらず、不思議と反応してしまう。
 でも、ソレの理由がなんとなくわかった。
 きっと、自分の心の《黄昏成分》が不足しているのだと思う。
「なんか、黄昏たい」そんな瞬間は誰にでもあるのではないか。どれほどガヤガヤ騒がしい場所が好きな人でも、時には、しんみり、しっとり、過ごしたいことがあるはずだ。

 例えば、演歌が流れていてシワ付きヨレありのスーツを身に纏いさらには負のオーラまでも纏っているサラリーマンが猫背になりながら座っているような居酒屋でしんみり飲みたくなったり、深夜に酒をちびちびと飲みながら暗めの部屋で『孤独のグルメ』や『1日外出録ハンチョウ』を見たり、スーっと澄んだ空気が漂う寒空の夜にベランダで嗜む煙草と缶コーヒー……など。
 虚しく、淋しく、孤独なひとときが何故か「気持ちいい」。すなわち黄昏。落ち着く時間。

 つまりは、缶コーヒーの美味しさは「虚しさ」だ。
 そして、気分に沿った「デザイン」もまた大事な役割を担う。デザイン1つで気分の行先が決まる。
 これらが缶コーヒーの醍醐味であり、しんみりと黄昏るための重要な要素である。
「虚しい」は、楽しい。大人のエンタメだ。